大面神明社(おしめ様)
1、祭 神 天照大神(アマテラスオオミノカミ)
太陽を神格化した神であり、皇室の祖神とされているため、農耕儀礼と密接に結びつき広く信仰を集めている。
元は王室の氏神として、天皇、皇后、皇太子以外の奉幣は禁じられていたが、中世に入り、
伊勢神宮の信者が各地の講を組織し、王家の氏神から日本全体の鎮守として分霊された。
特に新田開発時に建立されている。
2、祭 事
現在、大面5軒で5月15日にお神酒を奉納している。
残念ながら冬は豪雪のため、お店を閉めてしまいますが、四季折々の風景を堪能できます。
3、建 立 不 明
※注、なお、東北地方福島県では、おしんめい様と呼ばれている神がある。
一般的にはおしら様と呼ばれていますが、福島県南部ではおしんめい様と呼ばれており、
短い棒の先に頭部を付けて目鼻を書いたものに、布のきれはしを着物としてつけたものがおしんめい様である。
一見大きなはたきのような一種の人形です。
必ず男女対をなしいて、男神は、烏帽子を被ったのが多く、胴にあたる棒の材質は杉が多い。
もとはしんめいみこといわれる巫女が持っていて、頼まれて他人の家に出かけて言って病気を治してやった。
現在はおしんめい様の南限は福島県南会津と言われている。(村の神々)
観音堂(観音様)
観音堂(観音様)
会津糸沢村龍福寺の末寺、真言宗旧龍泉寺の境内に観音堂があります。
現在は、小さくなっていますが、昔は回り廊下があり、
境内で旧の8月16日に盆踊りがありました。
旧の5月24日は青年団が丸渕で体を清め、おこもりをしたようですが、残念ですが現在はその面影はなくなってしまいました。
観音堂の大銀杏この銀杏は雄木で、推定樹齢約300年
木の高さは約24mあり、根本から太い幹が4本
立ち分かれて、傘状に広がっていますが、
熊の堂神社の銀杏と同じように、2本の茎が癒着したのではないかと推測されます。
太いほうの主幹は、落雷によるものと思われますが折れています。
根元の周囲からは多数の細い枝が出て直立しています太い幹からは、乳頭状の突起が垂れ下がっており樹齢の古さを示しています。
(とちぎの名木100選に選ばれています)
熊の堂神社(くまんさま)
1、祭 神
伊弉諾尊イザナギ(伊弉諾、伊邪那岐)は、日本神話に登場する男神。
イザナキとも。『古事記』では伊邪那岐命、『日本書紀』では、伊弉諾神と表記される。
イザナミ(伊弉冉、伊邪那美、伊弉弥)の夫。
2、祭 日
旧3月15日
縁日には、三依村民はもとより、尾頭峠を越えて塩原郷からのお参りもあり、たいそうな賑わいだったそうです。
3、建 立 不 明
天地開闢において神世七代の最後にイザナミとともに生まれた。
国産み・神産みにおいてイザナミとの間に日本国土を形づくる多数の子を儲ける。
その中には淡路島を筆頭に本州・四国・九州等の島々、石・木・海(オオワタツミ・大綿津見神)
水・風・山(オオヤマツミ・大山津見神)・野・火など森羅万象の神が含まれる。
イザナミが、火の神であるカグツチ(軻遇突智、迦具土神)を産んだために陰部に火傷を負って亡くなると、
そのカグツチを殺し(その血や死体からも神が生まれる)、出雲と伯伎(伯耆)の国境の比婆山に埋葬した。
しかし、イザナミに逢いたい気持ちを捨てきれず、黄泉国(よみのくに)まで逢いに行くが、そこで決して覗いてはいけないという
イザナミとの約束を破って見てしまったのは、腐敗してウジにたかられ、八雷神(やくさのいかづちがみ)に囲まれた
イザナミの姿であった。
その姿を恐れてイザナギは逃げ出してしまう。追いかけるイザナミ、八雷神、黄泉醜女(よもつしこめ)らに、
髪飾りから生まれた葡萄、櫛から生まれた筍、黄泉の境に生えていた桃の木の実(意富加牟豆美命、おほかむづみ)を投げて
難を振り切る。
黄泉国と地上との境である黄泉比良坂(よもつひらさか)の地上側出口を大岩で塞ぎ、イザナミと完全に離縁した。
その時に岩を挟んで二人が会話するのだが、イザナミが「お前の国の人間を1日1000人殺してやる」というと、
「それならば私は、1日1500の産屋を建てよう」とイザナギは言い返している。
その後、イザナギが黄泉国の穢れを落とすために「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」で禊を行うと
様々な神が生まれ、最後にアマテラス(天照大神)・ツクヨミ(月夜見尊月読命)・スサノオ(建素戔嗚尊速)の三貴子が生まれた。
イザナギは三貴子にそれぞれ高天原・夜・海原の統治を委任した。
しかし、スサノオが「妣国根之堅州国」へ行きたいと言って
泣き止まないためスサノオを追放し、古事記によれば淡海(近江)の多賀(滋賀県犬上郡多賀町)、
または淡道(淡路島、淡路市)の多賀に、日本書紀によれば淡道(淡路島、淡路市)の多賀に篭ったとされる。
現在の日本のことを浦安と名付けたと日本書紀に記されている。(日本の神々)
熊の堂神社の大銀杏
熊の堂神社の境内に立っています。推定樹齢300年、木の高さ約35m。
雄木で根本から大小2本の茎が立ち、太いほうは、落雷の影響か途中で枯れてしまっています。
しかしその下部から伸びた2本の茎が高く伸びて主幹となっています。
この木のまた、元々2本であったのが癒着して成長したものと推測されます。
熊の堂神社の大サワラ
水生植物園の近くに立っています。
推定樹齢250年木の高さは約35mあります。
地上6m付近で2つに別れて立ち美しい樹形でしたが、残念なことに平成19年の台風で1本が折れてしまいました。
(とちぎの名木100選に選ばれています)
きの松(水生植物園内)
今を去ること約五百年前の戦国のころ、戦いに出て行方不明となった夫を訪ねて旅をしていた女性がありました。
長い旅の途中、上三依の里、熊野堂でついに疲れ果てて、熊野宮にしばらく身を寄せ疲れを癒しておりましたが、
悲しいことにそれもつかの間、ほどなく病死してしまいました。
その女性には、郷里に残した一人の娘があったのです。
この娘は夫を訪ねて旅をする母同様に母をさがしもとめて旅をしていたのです。なんと悲しい宿命の
母娘でしょう。
やっと上三依のこの里で、すでに母が亡くなっていたことを知り、悲しみのうちに里人が手厚く葬った場所を訪ね、
塚の上の里人が植えた松の木を母にすがり抱きつくようにして、さめざめと泣き悲しみました。
深く胸をうたれた里人は墓所のそばに小屋を建てて与えました。
娘はその後、悲嘆のうちにも里人の温かな心尽くしに守られながら供養に日々を送っておりましたが、
あまりの悲しみにだんだん食も通らず、身を細らせてついに母のあとを追うように死んでしまいました。
里人は娘の心を思いやり親松のそばに子松を植えてやりました。やがてこの二本の松は、年を経るごとにすくすくと伸びて、
子松は親松の幹にすがるようにからみつき、いつとはなく里人は子が親に抱きついているのだと話すようになりました。
そしてその深い情を思いやり、この頃から、この里には、ひとしおお年寄りや親をいたわる気風が高まりました。
後年、旅の途中この里を訪れた法師某は「村風淳にして情こもれり」と、村風の良いわけを尋ね、この松の話を聞き、
歌を詠んでいます。
心なき人に見せばや下野の 三依の里の親抱きの松
(人によっては三依の里を熊野の里とも伝える)
また、会津保科正之も参勤交代の途中横川本陣に泊まり、この話を聞き、
みどり子の親を忘れぬ誠ぞと しるしを見せる親抱きの松
と詠んでいます。今も上三依水生植物園内に、この二本の松の根株が残されています。
(民話と旧跡)
文政六銘石造道祖神(どうろくじん)
道祖神は、路傍・村境にあって、邪悪のカミの村への侵入をふさぎとめる「ふさぎ」が祖形である。
その起こりは、奈良時代に求められ、全国的な民俗信仰の一態様である。
この神体は、娘が男根を胸にいだいた姿をいやみなく陽刻したものであって、
この姿態の道祖神は栃木県内では全く他に類例をみないのみならず群馬県や長野県などに
散見できる男女抱擁像などに対比できる全国的にも珍しく貴重なものである。
文政年間の本町では、天明期以来の連続的な飢餓を経て、流通商品の輸送力の低下の問題を抱えた
問屋を中心とする
旧来の運輸体系に、いっそう苦悩の色が深くなってくる。
相対的に全国的な身分制のゆるぎや政情不安の中で、経済的に優位に立つ商人層と結んだ仲附が、
尾頭道などあらゆる限りの方向に人馬輸送をおこない、その活況が極に達した時期である
こうした時代背景の中で、
上三依村の活況や尾頭峠越え塩原郷との盛んな交流があったこと。
さらには、六地蔵など他の石像の建立と併せて幅広い信仰の世界が存在したことを裏づける貴重な一資料といえる。
このように「文政六年」と本体の建立年代が判然としていることが、本体の資料的価値を高からしめているといえる。(民話と旧跡)
※ もとは、尾頭峠の板橋付近にありましたが、どういう経過か川治温泉柏屋ホテルに祭られていたものを、
お返しいただき現在の場所に安置されました。
馬頭観音
近世以降は国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなった。
これに伴い馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が多く祀られ、
動物供養塔としての意味合いが強くなっていった。なお「馬頭観世音」の文字だけ彫られたものは
多くが供養として祀られたものである。
馬頭観音の碑
上三依野仏群
弁財天供養塔
財宝利得をもたらす福の神として信じられてきた。
さらに転じて五穀豊穣や技芸上達まで祈られ、音楽の神・水の神としても信仰を集めた。
湯殿山
湯殿山は、山形県中央部、月山の西にある山で、出羽三山の一つ。
修験道の霊山として知られる。
この碑は湯殿山神社への参詣記念で、この碑に祈り直接参詣と同効果を考えたものだろう。
男体山
男体山は日光連山の一つで、湯殿山と同様直接参詣と同効果を考えたものだろう。
子安観音
慈母観音・子育て観音とも言う。子宝を恵み、安産から子育てまで功徳がおよぶ。
会津キリシタン関係のマリア観音の疑いもありと言う。
馬頭観音
六観音の一つで畜生道の救済に当るので頭上に馬をいただく。
後に馬による交通の発展に伴い、死馬の供養や交通安全の祈りに発展した。
六面憧形六地蔵
常に悪行を犯し、六道に輪廻転生する浅はかな人間を救うという。
六道は、地獄(怒)・餓鬼(欲)・畜生(愚)・修羅(闘争)・人間・天上(喜悦)をさす。
二十三夜供養塔
毎月、日を決めて月の出を待ちいのった。ほどんとが女人の信仰で、良縁・子宝・安産等が祈願された。
乙女が、この夜ひそかに念じて鏡をのぞくと未来の夫の姿が見られたという。十九夜塔等も同じである。
庚申供養塔
庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚(こうしんづか)ともいい、
中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。
庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い。塚の上に石塔を建てることから庚申塚、
塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれる。
庚申講(庚申待ち)とは、人間の体内にいるという三尸虫という虫が、
寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くのを防ぐため、庚申の日に夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀り、
勤行をしたり宴会をしたりする風習である。
塞神として建立されることもあり、村の境目に建立されることもあった。
上三依一里塚
現在、当地区には会津西街道に沿って、上三依のものが両側に、横川のものが片側にのみ
合わせて三つの一里塚が残っています。
会津西街道といういいかたは比較的新しいもので、江戸時代、会津地方では南山地方を通ることから
「南山通り」あるいは単に「南通り」といいました。
さて、会津地方に一里塚ができたのは、寛文七年(1667年)のことです。
その年の二月、幕府から「今年廻国使(かいこくし)を派遣するから、領内の道筋に一里塚を築くように」と命令がありました。
会津藩ではこれを受けて、家臣を遣わして主街道はもちろん、脇街道にいたるまで若松の札之辻というところを基点として
一里塚を造らせたのです。
当地区に残る三基の一里塚も、このときに造られたものと考えられています。
一里塚の大きさは、今残っているものを測ってみますと、高さ三メートル、周囲約二十メートルあり、
塚の上には榎(えのき)が植えられていました。
これは、夏はその木陰に休み、秋はその実をとって飢えをしのぐという実用に供したものです。
大部分の一里塚は、明治以降、田や畑になったり、道路改修時に消えてしまっています。
それだけに、上三依と横川の一里塚は、貴重なものであるといえます。特に上三依の一里塚は道の両側に残っており、
そのあたりの景観も昔に近いものがあり、路傍にひっそりと立っている馬頭観音や六地蔵、素朴で美しい道祖神など、
上三依村の民度の高さとともに、豊かな精神の世界の存在を物語っています。(民話と旧跡)
示現神社(鎮守様)
1、祭 神
事代主(ことしろぬし、言代主神)八重事代主神(ヤエコトシロヌシ)。
2、祭 日 旧5月7日
神仏が人々を救うために、様々な姿に実を変えてこの世に現れることを示現と言う。
3、 建 立 不 明
上三依地区の鎮守様
上三依地区で祭日にはお神酒を奉納し、お参りをする。
回り番で祭りの宿に行う。(数年前より回り宿はなくなる)
※ 注 のぼりには示現丸とされている。
神話の記述
大国主とカムヤタテヒメとの間に生まれた。
葦原中国平定において、タケミカヅチらが大国主に対し国譲りを迫ると、
大国主は美保ヶ崎で漁をしている息子の事代主が答えると言った。
そこでタケミカヅチが美保ヶ崎へ行き事代主に国譲りを迫ると、
事代主は「承知した」と答え、船を踏み傾け、手を逆さに打って青柴垣に変えて、その中に隠れてしまった。
タケミナカタもタケミカヅチに服従すると、大国主は国譲りを承諾し、
事代主が先頭に立てば私の180人の子供たちも、事代主に従って天津神に背かないだろうと言った。
解説
名前の「コトシロ」は「言知る」の意で、託宣を司る神である。
言とも事とも書くのは、古代において「言(言葉)」と「事(出来事)」とを区別していなかったためである。
大国主の子とされているが、元々は出雲ではなく大和の神とされ、国譲り神話の中で出雲の神とされるようになったとされる。
元々は葛城の田の神で、一言主の神格の一部を引き継ぎ、託宣の神の格も持つようになった。
このため、葛城王朝において事代主は重要な地位を占めており、現在でも宮中の御巫八神の一つになっている。
葛城には、事代主を祀る鴨都波神社(奈良県御所市)があり、賀茂神社(上賀茂神社・下鴨神社)のような
全国の鴨(賀茂・加茂など)と名の付く神社の名前の由来となっている。
美保で青柴垣に引き籠った事代主神は、伊豆の三宅島で三島明神になったとする伝承もある。
富士山の神とともに10の島を生み、現在の三嶋大社(静岡県三島市)に鎮座したとする。
愛宕神社(愛宕さん)
1、祭 神 火産霊命(ほむすびのみこと)(火の神)
2、建 立 不 明
愛宕信仰(あたごしんこう)とは、京都市の愛宕山山頂に鎮座する愛宕神社から発祥した、
火防の神に対する神道の信仰である。
村の火防の神として、愛宕神社よりお札をいただき建立したものと考えられる。
山の神
1、祭 神 大山祇神
(おおやまつみのかみ)
別名として「大神」とも。
伊弉諾尊と伊弉冉尊の間の子で、磐長姫命と木花開耶姫命(瓊瓊杵尊の妃)の父。
2、建 立 不 明
3、祭 日 旧11月29日
山の神の祭りには、全国で多くの異なった祭りがあり、
上三依では旧の11月29日に炭焼きたちが集まってお神酒をあげ、ばんだい餅と汁とあんこをつくって祭りをした。
宿は炭焼きの組合員の家をまわり番で使った。
また上三依、大面にお社があるが山の神は山ごとにあるという
山入りの行事として、
旧正月の2日に上三依では山から楢の木を切ってきて、それを燃やして酒を沸かして飲んだ。(藤原町町史)
炭焼きなどの山民にとっての山の神は、自分たちの仕事の場である山を守護する神である。
農民の田の神のような去来の観念はなく、常にその山にいるとされる。
この山の神は一年に12人の子を産むとされるなど、非常に生殖能力の強い神とされる。
これは、山の神が山民にとっての産土神でもあったためであると考えられる。
また、女神であることから出産や月経の穢れを特に嫌うとされるほか、祭の日には女性の参加は許されてこなかった。
山の神は醜女であるとする伝承もあり、自分より醜いものがあれば喜ぶとして、顔が醜いオコゼを山の神に供える習慣もある。
なお、山岳神がなぜ海産魚のオコゼとむすびつくのかは不明で、「やまおこぜ」といって、魚類のほかに、貝類などをさす場合もある。
マタギは古来より「やまおこぜ」の干物をお守りとして携帯したり、家に祀るなどしてきた。
「Y」の様な三又の樹木には神が宿っているとして伐採を禁じ、その木を御神体として祭る風習もある。
三又の木が女性の下半身を連想させるからともいわれるが、三又の木はそもそもバランスが悪いため伐採時に事故を起こすことが
多く、注意を喚起するためともいわれている。
日本神話では大山祇神などが山の神として登場する。
また、比叡山・松尾山の大山咋神、白山の白山比咩神など、特定の山に結びついた山の神もある。
※山の神は一般に女神であるとされており、自分の妻のことを謙遜して山の神と言う表現がうまれた。
鶴ヶ渕城跡
上三依と横川の中間地点に、鶴が淵城があります。
会津西街道をはさんで、東側の姥捨山(うばすてやま)のとりで跡と西側の居館跡とが一対になって、城としてのはたらきをしているものです。
城跡には違いないのですが、むしろ、戦国武将の居館跡といったほうがぴったりするようです。
山頂のとりで跡は、四つの平地の部分からできています。その平地の街道に面したところには、石積みなどの補強の跡が残っています。
また、居館跡はとりでから西南へ約200メートルの地点、男鹿川の川際から山際にかけてあります。
外寸26メートル×28メートルの升形土塁が残されています。周囲に深い空堀をめぐらしています。
この城は、永禄12年(1569年)田島城主長沼実国(さねくに)が築いたと伝えられています。
長沼氏といえば初代宗政が文治5年(1189年)、源頼朝によって下野芳賀郡長沼地方を中心に所領を安堵(あんど)された御家人の名家です。
実国はその子孫で、田島城を根拠に、若松の芦名(あしな)氏・米沢の伊達(だて)氏らと対峙して、
南北朝から戦国時代の領国経営に手腕を振るった人です。
実国は、芦名氏への対し方について、嫡子(ちゃくし)盛秀と不和であったと伝えられています。
そのため、三依郷鶴が淵にいわば隠居城の形で居館を移したものと考えられます。
隠居城とはいえ、会津地方と下野を結ぶ幹線道路に沿った前線基地として、重要な役割を担った城であったわけです。
天正6年(1578年)北上した宇都宮勢に攻められて鶴が淵城は落城します。
そして、宇都宮側の将大沢助次郎がこの城を占拠していきます。その後、数回に及ぶ小競り合いの末、田島勢が再びこの城を奪還しますが、
長沼氏も勢力を失って、仙台の伊達氏傘下(さんか)に編入されます。
この時代、田島地方は、上杉景勝(かげかつ)の支配下に入ります。
彼はこのとき、徳川家康を討つため関東に軍を進めますが、その一翼を担って、田島城主大国但馬守(たじまのかみ)をして、
鶴が淵城を修築させます。
このとき、男鹿川をせき止めて街道に水をたたえ、とりでの岩壁に石弓を設けてここを要塞化し、
先兵を高徳あたりまで出して盛んに陽動作戦をしたといいます。
関が原以後、天下は徳川氏のものになります。
上杉氏は当然ながら禄を減らされて、米沢へ移されます。代わって会津若松には、蒲生(がもう)秀行が宇都宮から入ります。
こうして、田島、宇都宮の積年の境界争いに終止符が打たれ、鶴が淵城も廃城になってしまいました。(民話と旧跡)
参考文献
藤原町の民話と旧跡・藤原町の歴史と文化・藤原町町史・日本の神々・村の神々
その他(インターネット)